studio-L 山崎亮さん|ユルツナ大学

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Q:山崎さんが取り組まれているコミュニティづくりというのは、いろんなところに応用が効くように思うのですが?

マルヤガーデンズ」というプロジェクトは僕らとしても意外でしたね。公園を設計して、それを使いこなしていくというパークマネジメントを次にやって、更に外に広げて街全体でマネジメントをして街づくりをしたらおもしろいじゃんっていうことでプロジェクトが増えてきたと思っていたんですけども、基本的には行政関係の仕事だったんですね。でも、そのノウハウを民間のデパートの再生計画に使わないかって誘ってくれたのが「D&DEPARTMENTの「ナガオカケンメイさんで、その誘いは僕らにとっては相当刺激的っていうかね、新しいことが出来るかもしれないなって思うものだったんです。

 先日ナガオカさんと話をしていて「そうだったよね」ってことになったんですが、ナガオカさんとしてはあんな風になるとは思っていなかったと。最初ナガオカさんは「金沢21世紀美術館みたいに、地元の人達が美術館のお手伝いをするという独特のコミュニティをつくってくれればいいと考えていた。そういうものを依頼されたのですが、僕らとしてはそれだけだと一個の団体しか出来ないでしょと。むしろ、むちゃくちゃいっぱいコミュニティが入ってくる場所を作ろうと。地域にあるコミュニティでとにかくいろんなことをやって、10階建ての中に日替わりでどんどんいろいろなコミュニティ活動をするって状況を作ってあげて、それを下支えしていくような地元のコミュニティも新しく作っていく。そういうことを提案して、今まで公園でやっていた事をデパートに持ち込んだんですよ。

 それは、お互いにとって予期せぬ出来事だったと思うんですね。ナガオカさんとしても、こんなにいろんなコミュニティが一杯入ってくるとは思っていなかったし、当時はちょっと戸惑いもあったみたいなんですが、僕としても公園や街でやってきた事を民間企業の中でやれるとは思っていなかったんで、それが出来た事はすごく画期的でしたね。

 その結果大阪の近鉄百貨店でも同じように、日本一の床面積を持つすごく大きな百貨店でコミュニティが建物の中に入ってきて新しい状況を生み出すというプロジェクトに関わってくれませんかと誘ってもらう事になって。大阪の天王寺に新しく出来る近鉄百貨店の住民参加型のコミュニティデザインを担当する事になりました。

Q:一般企業の人材育成やチームビルディングにおいても「コミュニティデザイン」の可能性が広がっていくような気がします。

 今までずっと支援してきた島根県にある「海士町」の役場の人達が、集落の支援する人を募集しています。10人くらい支援する人達が新しくはいってくるのですが、この人達の研修を依頼されています。今までやってきたチームビルディングの流れと、集落に入っていった時に気をつけなくてはならないことや作法などを教えていくという仕事にも関わる事になったりしてるんで、おっしゃるとおり役場などの組織や企業においても仕事は増えてきてますね。

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studio-Lの西上ありささんにも同席いただき楽しく進行。実はインタビュー終わってからの会話もめちゃオモシロかったのですが、それはスタッフだけの秘密です(^_^)

Q:最近、コミュニティに対する意識が非常に高くなっている気がします。以前山崎さんもおっしゃっていたように震災後に高齢者・障がい者がコミュニティがないまま仮設住宅に入ってしまうと弱体化して孤独死に至ってしまう。山崎さんは阪神の震災でもいろいろと関わられていたと思うんですが、それを踏まえて、今回の東北震災後のコミュニティはどうあるべきだと思いますか?

 2点あると思いますね。1点目はやはり元にあったコミュニティをなるべく切らないようにすることだと思います。被災住居にもよるのでなかなか一概にはいえないのが、何十年、何百年の間に構築されてきた地域コミュニティを出来るだけ切らないように再建していく。それが第一だと思います。

 ただ台湾の地震だったり新潟の地震、中越の地震の時はある程度それができたんですね。仮設住居へ入居する時もコミュニティ入居というのが出来たんです。阪神淡路ではコミュニティを切って入居したがゆえに問題が幾つか生まれたので、それ以降の台湾の大地震では、その知見を活かしてコミュニティ入居を上手くやって、それで中越の時もコミュニティ入居をやっていったんです。

 そう考えると今回もコミュニティ入居で各自治体ごとに入ればいいんじゃないかって話になるんですが、これは災害の規模も関係しているんです。阪神淡路の時は、被災した人に対して供給される仮設住宅の数が非常に少なかったんですよ。だから優先的に入って頂く人(高齢者、障がい者)を決めないといけなかった。台湾と中越の時は、仮設住宅をある一定規模でポンと建ててしまえば、被災した人達が自治会ごと入れる事が出来た。

 今回もコミュニティ入居をすべきなんですが仮設住宅の数が到底足りないんですね。被災した人の数が圧倒的に多くて、資材が入手困難。つまり資材を供給していた場所が津波や地震でやられてしまったので、日本の中で大部分の資材を供給する場所自身に仮設住宅を建てなければいけないっていうことになったんです。東京でも材料が足りないですけれども、その材料が足りないなかで仮設住宅を作ろうとすると、やっぱり総数が少ないところに被災した人達が押し寄せることになります。ここはやっぱり人道的な観点から障がい者だったり高齢者から優先で入って頂くしかないんだろうと思うんです。ただそうだとすれば阪神淡路の時とは変えて、仮設住宅の住民たちが外まで出てきて何か一緒にやったり、共同作業したり、その住民同士が交流するきっかけを作り出さないといけない。テーマ型の新しいプログラムを即座に作って、住民たちが3年の間で顔見知りになっていって信頼関係を作るための幾つかの巧妙なプログラムをそこにデザインしていかなくちゃいけないような気がしますね。

 そうしないとみんな家の中だけにいて、やがて人と接することがだんだん怖くなってきて面倒くさくなってくる。それで1年、2年経つと、多分もう自分から話しかけられない環境になってしまうと思いますね。ハードで仮設住宅を作ったからOKっていう形ではないだろうというのが16年前の震災の時の教訓だと思うんです。

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お忙しい中、日曜のランチの時間を使ってのインタビュー。今、考えると山崎さんはいつ食べていたんだろう?

 コーポラティブで住宅を創っていくっていうのも、わざわざ引っ張り出してくるきっかけだと思うんですね。そのきっかけが1年2年の間にかなり信頼できる人間関係が出来上がって、結果住み始めたときにはもう顔見知りですっていう状態になる。今まで供給されるだけだった住宅のやり方とは全然ちがう方法ですよね。

 コーポラティブは確かに面倒かもしれない。ただあの面倒な作業をやる人がいること、そしてそこに出てくる人がいて、更にはそもそも出てくるだけの価値がそこにないとダメだったりするんです。住宅作るっていうは既に一定の価値をもっている。自分達がこれから住むわけですから、どうしてもいい場所にしなくてはいけないって気持ちがあって、話し合いにもちゃんと出てきてもらえます。

 しかし仮設住宅に入ってきた人達は、見ず知らずの人達が住み始めるわけです。その人達を、それでもやっぱり自分達のメリットになるような価値を作って、一緒になんかやろうよ、というような状態にしなければいけない。そのときの魅力的なプログラムは、やっぱりコンサルタントとか、シンクタンクが考えられるような範疇ではなくて、デザイナーが新しくデザインしなくちゃならないんだろうと思います。ソフトだからなかなかデザインって呼べないんですけど、そこは発明というか発想というか、ものすごくデザインが求められる部分だと思いますね。

Q:私もユニバーサルデザインを進めていく中で高齢者施設などで仕事をする機会があるんですが、高齢者だけのアクティビティを見ているといたたまれない気持ちになります。確かになんとか場を活性化させたいんだけれども、本当にそこでデザイナーは活躍できるのでしょうか?

 デザインは、原則的には「デ・サイン(記号的なるものから脱する行為)」だと思います。だからデコレーションで単にかわいいね、きれいねっていう表層にある記号的なものはデザインじゃなくて、深く入って本質的な課題を見極めて、それを上手く解決していけるような道筋を発明して、さらにそれが最終的に美しいものとして定着できるように形作っていく行為が「デ・サイン」だと思うんですね。

 だから、デコレーションだけをやる人達は、そんなに深い課題を知らなくてもとりあえず目の前ものがきれいで、人がちょっと楽しいなと思えればいいという表面の部分に関わっている人達だと思いますし、コンサルタントっていう人達は課題がどこにあるかって所までは突き詰めますが、それを美しいものにしてみんなが共感して「オレもやりたい!」ってところまではしない。課題を明確化して、その課題をどうやって解決すればいいかっていう割と機械的なアプローチをとる。

 デザイナーだけが、デコレーションの美しさと本質的な問題を解決していく行為を両立出来る職業だと思っているんですよ。本質論をしたってみんなは興味がないので、それをみんなが楽しいって寄ってこれるような美しいシステムやプログラムとして作り上げていくのがデザイナーの仕事だと思います。それはデザイナーしか出来ないんじゃないかなって思います。

 長い間デザインはデコレーションと一緒だと思われて来た。特に高度経済成長以降の1960年から2000年までの間はデザインが新しくなると物が売れるんで、経済が上向きになることとデザインっていうのが一緒になっちゃってた。

yamazaki_9.jpg 例えばこのグラスだったら、スタッキングした時にズレないような形になっていて、かつ音がガチャガチャしないような工夫がされていて、しかもそれが美しい形として成立している。デザイナーは常にそういういろんな課題のバランスを考えながら、最終的に美しい形へと統合する訓練をしてきている。そういう人達こそが、例え対象がモノの形じゃなくなってきたとしても、その本質を探りあてて、今表れている問題も解決して更に「みんながおお良いね!」「やりたいね~」って乗ってくるようなものをつくる力を持っているはずです。

 それは、システムとかプログラムのデザインとかも一緒だと思うんです。100年前にさかのぼると、19世紀から20世紀の前半の頃のデザインというのは、本来的にそっちだったんですよ。「バックミンスター ・フラー」にしても「ウィリアム・モリス」にしても「ル・コルビュジエ」にしても、その頃に書かれた本を読むとデザインは社会の課題に取り組むべきだということを徹底的に言ってるんですね。それこそまさに建築か?革命か?っていうくらい。建築で問題解決しなければ、市民が革命を起こしちゃうぞと。市民が困っている事こそを美しく解決していかないと、建築の存在意義がないし単なるビルディングを建ててもしょうがない。「建築を目指して」っていう1924年の本の一番最後には「建築か革命か」って言葉で締めくくられているんです。

 例えば彼らは下水道も通ってない長屋住宅のような環境で、ペストやコレラが蔓延して数十万人が死んでしまうような問題を、長屋を縦にして、更に下を浮かしてピロティにして太陽が降り注ぎつつ風がちゃんと抜ける構造をつくって、かつ周りに緑地を作るなどして問題を解決してきたんですよ。

 「ピロティ」「連窓」「屋上テラス」などモダニズムの5大原則(ル・コルビュジエ)を真似して少し組み変えるだけのものは、もうデザインとは呼べなくて形遊びになっている。20年代から30年代にかけての真剣にやっていた本来の「デ・サイン」が、もう「サイン」の反復でしかないし、それがまさにその経済を上昇させるための「差異」の反復になってしまったと思うんですね。だから、そのサイン化しちゃったデザイン行為をもう一度本来の「デ・サイン」に戻していかないといけない。もう祭りは終わった時代で、今後高度成長経済もバブルもこない。その頃のデザインはちょっと風邪を引いていたんだと思うんですね。

 でも、もう一度風邪から治って本来やるべきデザインに戻る時代、それでしかもう発注されない時代ですよ。今、ちょっとおしゃれなものを創ってくださいっていってインテリア設計したとしても半年ももたない場合が多いじゃないですか。そんな時代の中で、そこにお金を掛けようって言うクライアントはもう多分いなくなってきていると思う。流行のインテリアをデザインするくらいなら、クライアント自らがやればいい。白いペンキを塗れば、それなりに何となくオシャレな空間だねって言われる時代は白く塗ればいいし、ゴージャスな花柄の壁を張ったほうが新しく思われる時代ならばモリスみたいな壁紙を貼ればいいと思うんですね。

 ただモリスがあれだけの壁紙を貼らなくてはいけなかったのには、産業革命の時代に自然と切り離された人間の生活が、非常に非人間的でしかも窓も何にもないといった環境下で、どういう風に自然と暮らすのかといった感覚を忘れないために柳のテキスタイルとかをやったんですね。それがいつの間にか”モリス調”みたいな感じのインテリアをつくる事になってしまう。それはもうデコレーションですよね。


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